母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

10日目

病院。
6時起床。


母の左目に涙の跡が……
生理現象だとしても、生きていると思えて嬉しかった。


人工呼吸器の酸素を上げて頂き
11時頃父、妹と交代。
(自宅の庭に咲いていた花を持って来てくれる)


11時半。
母と仲の良かった従姉が、娘さんと一緒にお見舞いに来てくれる。


少し気になっていたので、従姉にお願いして
母の実家のお墓参りに行って頂きました。
(当時は藁にも縋る心境だったのだと思います)


午後は母が好きだった歌手のCDを買いに行ったり
お墓の掃除に行ったり、電気屋さんに行ったり……
(それまではお墓参りもお掃除も、家のことは母に任せきりでした……)


夕方、父の従兄が来てくれる。


私は従姉と娘さんと夕食に。
母や家族との思い出の場所……


夕食後、病院にいた父と交代。
妹と女四人で就寝前のマッサージ。


従姉と娘さんは東京方面から。
わざわざ来てくれて有難かった。


血中酸素が低くなり、機械で上げて頂く。
母も頑張ってる。


たらればだけど、せめて決行前日に戻りたい。


今度はちゃんと気付けるのかな?
優しく話を聞けるのかな?


ちゃんと救えたのかな?
私の所為じゃないのかな?


当時も今も、変わらぬ心境です。


妹、泊まり。

9日目

9時起床
久し振りに纏めて眠れました。


家族それぞれにメモとペン
薬局で母のリップと皮膚の薬を買って病院へ。


母は紐が切れた時、家具に額をぶつけたらしく
傷痕をケアする心の余裕が出来てきました。


看護師さんと妹と一緒に
パジャマの着せ替えとシーツ交換。


昼頃、父と一緒に妹帰宅。
父方の叔母さんが来て下さり、マッサージしながらいろいろお話。


心拍数、血圧、酸素、
色々な見方がわかり、メモを取り始めたり。
(母が生きていた記録の為に)


皮膚の薬を塗り、妹と交替。


9日振りに仕事に戻ったのですが
気持ちが紛れて有難かったです。


この日を境に


私→仕事の合間に
妹→看護の軸に
父→私達の予定を優先、好きな時に行き来させて欲しい


とシフトを組めるようになってきました。


引き継ぎのメモに残された
妹からの優しい労いの言葉。


みんな、根は優しいのに、
家族間での思いやりや労わりの気持ちが無かったな……と


優しすぎるから
イライラや憎しみを家族間でぶつけることしか出来なくて、
もっと優しく、楽しい時間を過ごせたら……


居なくなってしまったら、
本人も周りも、そこで時間は止まったままなのです。


居なくなって悲しまない人なんていない。


生きているだけで迷惑なんて……
自分もそんな風に思う日がくるのでしょうか……


ノートと一緒に遺された、母の手形(ボールペンで輪郭をなぞったもの)。


6年経っても寂しそうな父の背中を見る度に、
もっと優しい自分に変われていたら、と、何度も思ってしまいます。

8日目

8時起床


この頃から、
家族間でメモによる引き継ぎが成立していました。


母の様子、自分の予定や都合。
本来なら話し合いで解決出来ることが、
ここへきてようやくスタートラインです。
(今にして思えば)


10時、泊まりの父とバトンタッチ。


チームの看護師さん達が、
母の身体を洗ってシーツを交換して下さる。


爪を切って下さったり、たくさん話し掛けて下さって
当時の私達にとって、今でも、本当に有難い存在でした。


お昼は妹が外食に誘ってくれたのですが、
この頃の私は「食事が喉を通らない」状態でした。


何を食べても食べなくても、お腹が空かず、
ただただ毎日を過ごしていました。


お昼過ぎは、父方の叔母さんと従兄夫婦がお見舞いに。


叔母さんは叔父さんを看取っているのですが
末期の頃は病院で葬儀屋さんと打ち合わせしたのが悲しかったと……


その言葉を受け、
葬儀用の靴や服を買いに行ったのを覚えています。


夕方、自宅でうとうとしてしまう。
覚悟は出来ていても、母の居ない現実を受け止め切れず……


夜、
・着替え用のパジャマ
・ハンカチ
・新しいテープを持って病院へ


お泊りの妹と面会時間ギリギリまで
母の手足を解しながら話をしたり……


母が繋いでくれた姉妹の時間なのかもしれません。
悲しいことですが、数年振りの親子水入らずの時間でした。