母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

お通夜

お経を上げて頂く時間になっても
父とお坊さんは控室から出てきませんでした。


斎場の方は直接呼びに行けないので
長子である私に迎えに行って下さい……と
早速のハプニングです。


後に、父を問い詰めたところ
檀家さんでも自死が多い、あの家もそうだ、と
話し込んでいたとのこと。


守秘義務……とも思うのですが、
父は呑気に気にしていない様子。


私が母が自死だと打ち明けられない理由の一つに
父の体裁が含まれています。


父が知られたくないのなら、そうしておこう、と……


そのこともあり、後に診て頂く心療内科等の先生以外に
母の自死は未だに殆どの友人には話せていません。


体裁云々の前に、父の気持ちを考えるとまた苦しいです。
(母が亡くなってから父はギャンブルに手を出さなくなりました)


お経を唱えて頂き、通夜振る舞いを。
母に付けて頂いた法名は、
本名と苦しみから解き放たる意味を伴った漢字の美しいもの。


ウチのお寺は
お経を唱えた時点で仏様になれる即身成仏の為
これからの挨拶は「南無阿弥陀仏」で、とのご説明を頂きました。


色も痛みも悲しみもない、極楽浄土。


自死でも安らかな世界に居られますように。


母が大好きだった祖母と一緒に居られますように。


遺された家族は何時までも悲しいです。


毎日を乗り切る内に平気に慣れて行くかもしれませんが
癒される瞬間は一時たりともないのです。


母以上に大切な人には一生で二度と出会えませんが
大切に想える人はきっと増えて行きます。


身体が、傷を治してくれるように
日々、生きていることに感謝を抱けるようになるまで
私は七年かかってしまいました。


祭壇前に置かれた棺桶に釘は打たれず
顔の部分は透明なアーチ状のプラスチックの蓋が付いていました。


母の好きだった物、食べ物、私服、鞄、靴……


手元に残したい物と持って行かせたい鬩ぎ合いに苦しみましたが
母のお気に入りは殆ど入れられたと思います。


うつを患ってから食欲減退、
命を繋いでくれたプリンやアイスは
家族が宿泊出来る部屋の冷蔵庫に出棺ギリギリまで……


通夜振る舞い(大皿料理)に対して参列者が少なかった為
その残りも家族に託されました。


親戚に持ち帰って頂いても余りあるお料理。


父と妹を残し、自宅の冷蔵庫に持ち帰りました。


そこから手紙の打ち込み、
進行表のひな型→親戚ごとの台本にする、などの作業に入り
再び斎場に戻ったのは二時くらいだったと思います。
(家族のみ、24時間自由に出入り出来る通用口がありました)


就寝前、再び母の顔を観に行くと
すごく穏やかな表情をしていました。


母の魂はもう、肉体には宿っていないんだな……
安心する想いと悲しい気持ち……


宿泊部屋に付いていたお風呂に入ろうとするも
母の入院中、何度となく繰り返した水風呂に……


自動式洗濯機の蛇口を開き忘れたり、
何をしても身が入らない、そんな毎日でした。