母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

3日目

早朝、病院で起床。


薬が残っているのと寝起き
PMSで情緒が不安定。


母の容体に変わりはなく、
ずっとベッドに横たわったまま。


Dr.には
「瞳孔も開いたまま、変わりはない」と診察して頂き


看護師さんからは
「耳は最期まで聞こえるって言うから、声を掛けてあげてね」
と優しいお言葉を頂きました。


(この頃には家族で看取る為の、チームを組んで頂いていました)


父は日中も安定剤を飲んでいて、運転が出来ない状態。
母の傍にいたい
(危篤状態が続いていたので、もしもの時には真っ先に駆け付けていたい)
の意思を尊重し、私が自宅に戻りました。


静まり返った自宅。


出来ることと言えば


・整理
・入院に必要なものを揃える


くらい


午後は妹と彼氏が来てくれるとのことで、
「母ならこうするだろうな……」と思ったお土産を買い
病院へと戻りました。


「初めまして、両親と妹が、お世話になっています」


妹の彼氏と初めての挨拶は、母の病室でした。


彼は、妹の良き理解者で
私が妹と絶縁している間も、
二人で実家に来てくれたり、妹と両親の旅行に付き合ってくれたりと
当時は本当に有難い存在でした。


妹が両親を東京旅行に招待した時、
我が家では「夕方に雨戸を閉める閉めない」で大喧嘩でした。


私も適当に「閉めておく」と言えば良かったのですが
妹の当てつけのような企み(本当は姉妹二人で両親のお祝いをする筈でした)が
面白い筈は勿論なく
父も父で「自分が旅行に行けないから拗ねてるんだろ」との禁句を……


本来なら楽しい筈の親子旅行も
旅行中も、私のことが気掛かりだったのでしょう。


帰宅してから
「連絡の一つも寄越さないで」と嫌味を言ってしまった私に


「連絡をしたら、可哀想だと思った」
「姉妹で仲良くして欲しい」


グレープフルーツを食べていた母は
食べながらもわんわんと号泣し始めました。


色々、重なった上
張り詰めていた糸が切れた瞬間です。


その頃はまだ、妹への恨み節が強かったのですが
彼女は彼女なりに、彼氏と一緒に親孝行をしてくれたのだと思います。


「遠路はるばる、有難うございます」


妹の恋人で、実家や両親にまで関わってくれたのは
その時の彼氏が最初で最後です。


有難い思いで見送った後
母方の実家の従兄(長男)と父方の叔母さんが様子を見に来て下さりました。


この時点で私たち家族は、母の兄と兄嫁を出禁にしていたのですが
息子である従兄は話の通じる優しい人です。


母のことも「〇〇ちゃん」と慕ってくれて……
母が仲の良かった従姉と共に、良くして下さりました。


やがて病院に戻って来た妹と父を残し、
この日の夜は自宅へ。


21時から友人へ電話しているのですが
相手が誰で何を話したのか、どうしても思い出せません。


母が入院中は


・遠く離れた友人
・旦那さんを自死で亡くした友人
・数年前にお父さんを亡くした友人
・自宅でお母さんを看取った知り合いに


「母が入院した」
「意識がない。最期はどうしたか」
「家に戻れた場合は、どのように看病をしたか」


など、相談させて貰っていました。


父→絶対に助かる
妹→看護師として冷静に命の灯を見ている
私→助かって欲しい一方で、お葬式の服などを買いに行く


今、思い出しても、
すごく寂しいし悲しいです。


妹が礼服を持ち帰ったのも
父が家族の口座が凍結されないよう、銀行へ通っていたことも
当時の私は全く知らずに過ごしていました。