母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

4日目

この日から母方の叔父(母のすぐ上の兄)が
家族のヘルプに入ってくれることとなりました。


叔父は東京の大学を出て大手企業に就職。
母の上京(専門学校)に一役買ってくれた恩人です。


父はすっかり憔悴し、家族の負担も減らそうと
叔父を呼んでくれたのでした。


母の容体は相変わらずで
出来ることと言えば体交やマッサージなど。


病院での付き添いは、早朝、昼間、深夜問わず。
交代制で自宅に戻り仮眠、と言った生活が続きました。


関係者の方にしてみれば、
家族の介入はご迷惑だと自覚もありました。


その時はただ、


「母を一人にしない」
「後悔を残さない」


と言った想いを胸に、病院側の御厚意に甘えていました。
(今でもずっと感謝しています)


今日、明日、明後日、或いは数年後。


母との別れを覚悟する一方で、
肉体は生きている(正確には、生かして頂いている)という
一抹の希望に縋っていました。


精神の死。
肉体の死。


母はもう、戻ってはこない。
でも、触れられるものに、最期まで依存していたのだと思います。
(母が倒れた次に辛かったのは、荼毘にふす瞬間でした)


3階にある母の病室。


エレベーターに乗る度
「も」「ど」「れ!」と言って釦を押すのが父の習慣となっていました。


自死を選ばなかったら。
肉体だけでも生き続けていられたら。


母はそれでも幸せだったのでしょうか?


家族のエゴで言えば
どんな姿でも生きていて欲しかった。


自死を選ぶ瞬間


「家族が悲しむ」
「誰も悲しまない」


そんなことを考えたり
或いは、考える暇もないかもしれません。


決行する間際には、それさえも考えられないと。


わかってはいても、辛いです。


ほんの少しの喜怒哀楽の合間にも
ずっとずっと辛いのです。


後悔や自責の念。
どこからやり直せば……やり直せれば……


産まれてきたのが自分でなかったら
ほかの子供だったなら、母は今でも生きていたかもしれない。


とうやっても、母が生きていた頃の自分には戻れない。


そう気付くまでに6年。
辛くて苦しくて死んでしまいたい時もあった。


辛うじて踏み止まれたのは、憎くて仕方なかった父の存在です。
父に、同じ想いを二度もさせてはならない。


その頃、茶の間の奥から
くしゃくしゃに丸められた遺書の下書きが出てきました。


「お父さんへ、〇〇(私の名前)と仲良く暮らして下さい」


日付けは一年前の夏。


「その頃から決めてたのか……」
「一度は思い止まったんだね」


メモが見付かった時の父と妹の言葉。


今でも、何か言葉が欲しい。
本当の親子の言葉で。


遺された家族のバラバラだった絆を
母は命を投げ打ってでも繋いでくれたのかな……
そんな風に思える夜もあります。


ただ、「母を殺してしまった」と思えてならない夜は
本当に苦しくて、ただ、どうしようもないのです。