母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

2日目②

延命措置をして頂く際に
「長ければ何年も、短ければ数時間と云うもの」と説明して頂きました。


元気な時の母は
「脳死になったらそのまま延命はしないで」と話していましたが、
実際の死を目の当たりにして、思い出す余地もありませんでした。
(更新前の免許証までは、臓器提供にも〇がつけられていました)


母がうつになった経緯、理由は後々綴れたら、と思うのですが


・生真面目で几帳面で他人に気を遣う(遣い過ぎて損をする)
・明るくお調子者な反面、神経質で細かく、自分にも子供にも厳しい
・何でも卒無く熟す分、子供に求める理想も高い


など。
その要因となる性格、気質は元々あったのかもしれません。


一番の原因は恐らく、大好きだった祖母の死。


祖母の世話、自宅介護、入院中の世話、退院後の引き取り
と、祖母は母において、最も大きな存在でした。


父の元へ嫁いだのも、


・実家に近い
・実家を安心させるため


嫁いだ当初、同居していた曽祖母、祖父母と世話をし、看取り
「〇〇ちゃん(母)は立派だ」と言われることも
生き甲斐の一つだったのかもしれません。


妹が幼稚園に通い始めてからは
働きながらも運転免許を取り
家計を助ける為に、ひたすら汗をかいて働き続けました。
(そうして貯めた貯金を、父が秘密裏に使い込む悪循環だったようです)


父の実家に内孫を産み、
その安定を私たちにも願い続けた……


周りのお友達にお孫さんが出来始めたことで
話の輪に入れない、と落ち込み
私たちに重圧を掛けながらも、どんどん塞ぎ込んで行きました。


母にとっての祖母は、私にとっての母と同じで
共依存の一番の相手だったと思います。


私自身も祖母のことは大好きでしたが
祖母が亡くなった時に初めて、
「家族の時間が帰ってくる」と思いました。
(父は母が大好きだったので、介護に理解を示す、協力的になることで
良いパートナーになりたかったのだと思います)


母が妹から絶縁された時も
「お母さんは、孫が欲しくて私たちを産んだの?」
「そうだよ。子供なら、それが当たり前の親孝行」
と言った、売り言葉に買い言葉が原因でした。


父も私も妹も、
「話し合っても無駄だな」と思った時点で
黙って対人関係を切ってしまう乱暴な箇所があります。


妹は物理的な距離もある分、
母子間の関係が修復してから
(それまで家族とのパイプ役だった私とも、妹が連絡を絶ったため)
も、常に顔色を窺っている節は感じられました。


祖母が亡くなって直ぐ
お葬式の席で姉妹間が気まずくなり
母自身も実家の兄嫁とのいがみ合いが悪化して
本当に辛かったと思います。


暫くの間は父と二人で海外旅行に行ったり
気丈に振る舞っていたのですが、
父からも私からも妹からも家族の愚痴を聞かされ続け……


その頃、母が叔父(母の兄)と電話で話す内容は
実家の兄や兄嫁に対する愚痴や恨み言ばかりでした。


他人の悪口など、一切、口にしなかった母が……


これも後から知るのですが
兄嫁からは相当、辛辣な嫌味を言われ続けていたようです。
(日記にも「死んでも許せない」と強い言葉が記されていました)


母を巡っての家族の対立
実家の兄・兄嫁対兄弟間の確執……


すみません。
落ち着いたらまた続きを書きたいと思います。