母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

母が倒れた日②

母が処置室に入って数分後、父が到着しました。


「お母さんは、どうした?」
「わからない……」


処置室の前で、私は妹に電話を掛けていました。
看護師の妹なら、詳しい症状がわかるかもしれないと。


どれ位の時間、そうしていたのか。
父と私が処置室の中へと呼ばれました。


診察台の上に横たわった母は裸で
色々な器械のチューブで繋がれていました。


「5分以上の心停止、瞳孔も開き、脳死の状態と考えられます」


心臓蘇生して下さったDr.の言葉が、他人事のように聞こえていました。


こんな筈がない。
こんなことが起こるなんて。


その時の感情はそんな風だったと思います。


頭では理解出来ていても、
母に限っては絶対に助かる筈だ……と。


「延命処置も出来ますが、一度始めたら止められません。どうしますか?」
「生きられる可能性が1%でもあるなら、宜しくお願いします」


即答で返したのは父でした。
期間は問わない、生かして下さいと、Dr.に頭を下げてくれました。
(後にわかったのですが、父も頭では「助からない」とわかっていたそうです)


説明の最中でしたが、叔父(母の兄)からの電話が鳴り退室。
家を出る前に父が連絡したそうで、「どんな様子だ?」と訊ねられました。


「脳死の状態と言われました」
「そうか」


叔父は東京近郊に住んでおり、直ぐには駆け付けられないとのこと。
落ち着いたらまた連絡してくれ、と言われ
そこで母と仲の良かった従姉(母と十歳違い)にメールを送りました。


「個室にしますか?大部屋にしますか?」
「こうしたケースはどちらが良いですか?」
「ご家族にとって気兼ねなくでしたら、個室をお勧めします」


病棟に上げて頂く前、
看護師さんの説明を受けた記憶があります。


泣きながらエレベーターに乗っていたこと。
母の病室が病棟の三階に決まったこと。


その瞬間の記憶が、私の中にはありません。
その何処かで、母の携帯に妹からの電話が掛かってきました。


「もしもし?」
「……お姉ちゃん?」


妹と私は絶縁状態で、話をしたのは四年振りのことでした。


「切らないで聞いて、今、大丈夫?」
「……うん」
「あのね、落ち着いて聞いて欲しいんだけど、お母さんが首を吊ったの」
「……え?」


父が発見した時には息が止まっていたこと。
今、病院に運ばれて、脳死と言われたこと。


「わかった?大丈夫?」
「うん」
「今日はお休み?」
「うん。今から乗れる一番早い新幹線でそっちに向かう」


東京都下に住んでいる妹は、
たまたま休みでTDLに行っていたとのこと。


住まいよりも東京駅が近い為、すぐに帰ると言ってくれました。


妹は上京してからうつを患ったことがあり
母は自分のうつを妹には知らせないで欲しい、と常々言っていました。


心配かけたくない。
内緒にして欲しい。


その頃の私はうつを理解しているつもりでいて、
今より全く正しい知識がありませんでした。


元々、気難しい妹が癇癪を起す度
父、母、私の順に次々と音信不通にするのに腹を立て
「親の葬式にも呼ばない!」と捨て台詞を吐いたこともありました。


姉妹間がぎくしゃくしていなかったら。
妹と情報をシェア出来ていたら。


今でもわかりませんが、
お昼過ぎに妹は病院へと駆け付けてくれました。


看護師として、母の状態を見て
「良く病棟に上げて貰ったね。大したもんだよ」
と明るく笑ってくれました。


実家とも疎遠気味だった妹。
母を任せることにして、私は父と一度、自宅に戻りました。


車内での会話。


「お母さんが首を吊ったって知ってた?」
「お父さんも訊かれたけど、
お母さんが倒れているのを発見した時には、わからなかったんだよ」


父は私と取り合うくらい、母が大好き(いわゆる共依存)
後に警察にも訊かれましたが、
父が……と云う考えは思いも付きませんでした。


話によると父は、
私が作った紅白の応募葉書きを投函する為に、
散歩がてら近所のポストに出掛けていたそうです。


帰宅するまでのたった数分。


晴れていたから。
家族の目がなかったから。


後に妹と一緒にTDLに行っていたお友達が
「紐が用意されていたってことは、遅かれ早かれ決めていたんだよ」と。


それでも、止められたなら……と願ってしまうのです。


母がうつになる数年前に戻りたい。


原因の一端となってしまった自分を、
どうしようもなく許せないままの6年です。