母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

告別式②

火葬場から斎場に戻る途中でお墓に寄りました。
即身成仏の為、四十九日を待たず、お墓に納骨するのです。


母を自宅に戻して頂いた時、お墓の場所を訊ねられました。
斎場の方が予めの下見と、お墓の掃除をして下さったのです。


「芝桜が枯れているのですが、どうしますか?」


母がお墓に植えていた芝桜は、
時期と手入れが出来ないのを考えて片付けて頂きました。


裁縫、園芸、何でも出来る母と違って
私は何一つ出来ないと改めて思い知らされるようでした。


お墓に着いてから斎場の方が先導して下さったのですが、
通り過ぎてしまったりと、冷静に見ていました。


林に囲まれ、「漆が紅葉してるね」と従兄が写メを撮っていたことも。
SNSに載せるのかな?と思いましたが、訊ねることはしませんでした。


斎場の方が綺麗にして下さった墓石の下、
母が永眠する場所です。


綺麗な骨壺に入れて頂いていたのですが
遺骨は直接、納骨するとのこと。


妹とガクっとなったのを覚えています。
(骨壺も、悩みに悩んで選んだので)


家族、親戚、それぞれが
合掌、南無阿弥陀仏、礼拝と最後のお別れをしました。


叔父の遺骨を納骨出来ない叔母の話を聞いていたのですが
その気持ちが良くわかります。


暫く手元に置いてしまったら、
遺骨となった母ともお別れ出来なかったでしょう。


斎場に戻り精進上げを。


親戚それぞれに言葉を述べて頂いたのですが、


叔父が台本を忘れたり


父が台本を手放して
母との思い出、見送りに使った音楽の話をし始めたりと
アットホームなお別れ会でした。


私自身の写真はありませんが
私の撮った写真の中で、みんな楽しそうな顔をしています。


故人の思い出に話が弾む。


お葬式は遺された側の為のもの、
そのことを改めて実感しました。


実際に、初七日、四十九日(クリスマスでした)
がなかったら、張り詰めていられなかったと思います。


四十九日には
「故人が成仏する為に、少しずつ、荷物を手放して下さい」と……


それでも未だに、形見分けが出来ないのです。


母の部屋、衣装、化粧部屋。
何一つ手を付けることが出来ずにいます。


今回のブログにしてもそうですが、
少しずつ整理していかないとですね。


物に執着しても、母は帰って来ない。


お世話になった方達に、
今からでも形見分け出来たらと……


告別式が終わり、
母の寝室に祭壇やお花が移されました。


暫くはそちらにお供え、合掌をします。
少しずつ、心の整理が出来るように……

告別式①

さよならの朝です。


納棺、出棺、火葬場
お別れは刻一刻と近付いてきます。


お棺の中は母が好きだった物、思い出の品
参列して下さった方のお手紙など……


宿泊室の冷蔵庫からプリンとアイスを取り出して
いよいよ、いよいよなんだな……となりました。


火葬場のバスの中、
母がお世話になった病院を横目に……


看取りをさせて頂いた日々が、まるで遠くのようです。


不意にお父様を見送ったお友達の


「車窓の外は、何時もの日常なんだよ。
みんな何も知らず、何もなかったみたいに、普通の日々を送っているんだよ」


と云う言葉が横切りました。


幸せも悲しみも、同じように訪れる。


母が倒れた期間に読んでいた
「悲しい本」
マイケルローゼン作、谷川俊太郎訳、あかね書房出版



悲しみは(中略)きみを見付ける


と云う一節を繰り返し思い出していました。


火葬場は祖母のお葬式以来、
次に来る時が母のものなど、夢にも思っていませんでした。


見ず知らずのご遺族。
そのお隣で、母は荼毘にふされることとなりました。


「最期のお別れです」


父が釦を押す直前になって


「お母さんが居なくなっちゃう」


はじめて、言葉が出てきました。


「仕方ない」


父は毅然とし、崩れ落ちそうな私の身体を肘で押し返しました。


お母さんが居なくなってしまう。


精神だけではなく、肉体も、全部。


お友達のように、棺桶に縋り付いて泣くことも出来ず
私はその場に立ち尽くし、ただ、涙を流しました。


お母さん


お母さん


合掌し、心で何度も「ごめんなさい」と。


遺書には感謝の言葉はあれど
家族や誰かを責める言葉は一つもありませんでした。


それでも、後悔の念、罪の意識はずっと付き纏います。


助けられる選択肢はなかったのかと、
自問自答を繰り返してしまうのです。


泣き崩れそうな私を支えてくれたのは、従兄のお嫁さんでした。
外国から嫁いできてくれた彼女は
「貴方の気持ちがわかるよ。私も、お母さんを亡くしたから」と言って
背中を擦ってくれました。


その時になって初めて、ハグの大切さを知りました。


言葉だけでなく、体温の温もり
大丈夫だよ、と寄り添えなかった過去に後悔して
新たな涙が溢れてきました。


気付けば父と妹は、喫煙に出ていました。


「精進上げはどうされますか?何名様でご用意すれば良いですか?」


屋内に残っていた私に、新たな役目が訪れます。
連れ合いを亡くした叔母さんに相談し、協力して頂いて
待合室で待機していた親族に出欠を取って頂きました。


そうこうしている内、骨上げの時間に……
火葬場の方が、骨の部位をご説明して下さります。


ウォーキングが趣味だった母の足。
腰骨、助骨……


歯科で入れて頂いた金歯は、焼けて尚、残っていました。
頭蓋骨はほんのりとした桜色。
お棺に入れて頂いたピンクの花が、染めてくれたようでした。


父は妹と。
私は母の二番目の兄(叔父)と、骨を拾います。


早くにお母様を亡くされた方が「遺灰を飲んだ」と……
お話を伺った時には信じられませんでしたが、
その時には明確に理解出来ていました。


母と生きる


母の分も、生命を繋ぐ


骨上げの隙を見て、足下に周ります。
遺骨の周りにあった灰を少しだけ頂き、同じように……


手元には病院で切って頂いた爪、
自宅で切って頂いた髪が残されています。


それから、笑顔の母の写真。
(遺影と同じサイズ違いのものを、斎場の方が家族分作って下さりました)


再び斎場に戻るまで、やはり記憶がありません。


その日の天気がどうだったのか。
母が荼毘にふされる瞬間、火葬場の景色……


本人は苦しみから解放される
遺族が悲しんでいたら安心して成仏出来ない


頭では理解出来ています。


ただ、七回忌を迎えた今年になっても、
この場に母が居ないことが悲しくて仕方ないのです。

お通夜

お経を上げて頂く時間になっても
父とお坊さんは控室から出てきませんでした。


斎場の方は直接呼びに行けないので
長子である私に迎えに行って下さい……と
早速のハプニングです。


後に、父を問い詰めたところ
檀家さんでも自死が多い、あの家もそうだ、と
話し込んでいたとのこと。


守秘義務……とも思うのですが、
父は呑気に気にしていない様子。


私が母が自死だと打ち明けられない理由の一つに
父の体裁が含まれています。


父が知られたくないのなら、そうしておこう、と……


そのこともあり、後に診て頂く心療内科等の先生以外に
母の自死は未だに殆どの友人には話せていません。


体裁云々の前に、父の気持ちを考えるとまた苦しいです。
(母が亡くなってから父はギャンブルに手を出さなくなりました)


お経を唱えて頂き、通夜振る舞いを。
母に付けて頂いた法名は、
本名と苦しみから解き放たる意味を伴った漢字の美しいもの。


ウチのお寺は
お経を唱えた時点で仏様になれる即身成仏の為
これからの挨拶は「南無阿弥陀仏」で、とのご説明を頂きました。


色も痛みも悲しみもない、極楽浄土。


自死でも安らかな世界に居られますように。


母が大好きだった祖母と一緒に居られますように。


遺された家族は何時までも悲しいです。


毎日を乗り切る内に平気に慣れて行くかもしれませんが
癒される瞬間は一時たりともないのです。


母以上に大切な人には一生で二度と出会えませんが
大切に想える人はきっと増えて行きます。


身体が、傷を治してくれるように
日々、生きていることに感謝を抱けるようになるまで
私は七年かかってしまいました。


祭壇前に置かれた棺桶に釘は打たれず
顔の部分は透明なアーチ状のプラスチックの蓋が付いていました。


母の好きだった物、食べ物、私服、鞄、靴……


手元に残したい物と持って行かせたい鬩ぎ合いに苦しみましたが
母のお気に入りは殆ど入れられたと思います。


うつを患ってから食欲減退、
命を繋いでくれたプリンやアイスは
家族が宿泊出来る部屋の冷蔵庫に出棺ギリギリまで……


通夜振る舞い(大皿料理)に対して参列者が少なかった為
その残りも家族に託されました。


親戚に持ち帰って頂いても余りあるお料理。


父と妹を残し、自宅の冷蔵庫に持ち帰りました。


そこから手紙の打ち込み、
進行表のひな型→親戚ごとの台本にする、などの作業に入り
再び斎場に戻ったのは二時くらいだったと思います。
(家族のみ、24時間自由に出入り出来る通用口がありました)


就寝前、再び母の顔を観に行くと
すごく穏やかな表情をしていました。


母の魂はもう、肉体には宿っていないんだな……
安心する想いと悲しい気持ち……


宿泊部屋に付いていたお風呂に入ろうとするも
母の入院中、何度となく繰り返した水風呂に……


自動式洗濯機の蛇口を開き忘れたり、
何をしても身が入らない、そんな毎日でした。