母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

母が倒れた日③

病棟に上げて頂いた母は
低体温で脳死の広がりを防ぐ処置を施して頂きました。


全身を冷却マットのようなシートで覆い
体温を34度↓まで下げる手法です。


あんなに寒がりだったのに……


冷えて行く身体がすごく悲しかった。


※※※


詳しい時系列は忘れてしまいましたが、
警察による現場検証で、
寝室のある場所(敢えて伏せさせて頂きます)から
紐と同じ繊維が見付かったとの説明を受けました。


病棟の談話室に父、私とそれぞれ事情聴取を受け


・自殺の練習(兆候)は見られなかったか
・思い当たる原因はあるか
・うつの症状、通院歴などを訊ねられました


その時に思い当たったのは


・母方の祖母の死
・祖母の介護を巡って、母の実家と揉めていたこと
・父のギャンブルによる浪費癖
・父子間の不仲
・姉妹間の不仲
・孫がいない


うつの引き金もそうですが
なるべくしてなった原因ばかりです。


私も結婚や出産を急かされたり
完全な自立生活が出来ないこと(親への依存)で
何かと母と口論を繰り返していました。
(父の愚痴を受け、母が間に入り、口を出してくる状態でした)


色々考えた挙句、やっぱり何処か他人事のような
不思議な一日でした。


奇跡など起きないと、頭ではわかっているのに、
母に限って……と云う現実逃避をしていたのかもしれません。


母は以前、うつの療養で二週間ほど家を留守にしたことがあり、
その時と同じような感覚でいました。


私を自宅に送り届け、父は直ぐ様、病院へ。
自宅に残された私は、
遺書か何かが残されていないかと、家探しを始めました。
(変な話ですが、第一発見者である父が容疑者とならないように)


母の寝室、茶の間、本棚……


日記代わりの家計簿が、数ヶ月空白だったこと。
冷蔵庫横のレター刺しの中身(スーパーの割引券など)が整理されていたこと。


そこへ来て初めて、小さな変化に気が付きました。


病院に戻った父からのメールは


・容体は変わらず
・妹と様子を見ます


同居の身でありながら、父とは折り合いが悪く
何時も母を通しての遣り取りでした。
(妹との不仲にしても、母は板挟みの状態)


「お父さんより一日でも長く長生きして」


日頃からそんなことまで言っていたのに
お母さんが居なくなってしまったらどうしよう……


本当なら祖母が亡くなった時点で
母を労わり、支えなければならなかった。


気丈で家事も仕事もテキパキ熟して、
そんな母の脆さや繊細さに気付けず、
ただただ甘えるばかりでした。


何一つ、親孝行できていない。
心を入れ替えたところで、一秒前にすら戻れない。


歯痒いし情けない。


こうなるとわかっていたら……
たらればだらけの現在です。


遺書も見付けられなかった私は、
友人にSNSで音声通話をかけていました。


母のことは話せませんでしたが
他愛のない話をすることで、日常を感じたかったのかもしれません。


夕食も食べず、話をしていた時、
携帯に父親からの連絡がありました。


「お母さんの容体が変わった。
今夜が峠だから、戸締りをして病院にきて」


友人に「急なシフトが入った」と告げ、自分の車で病院へ。


何年、何ヶ月と不仲だった父や妹と
こんなに遣り取りをするなんて。


それが奇跡と思えるくらい、私たちは機能不全家族でした。

母が倒れた日②

母が処置室に入って数分後、父が到着しました。


「お母さんは、どうした?」
「わからない……」


処置室の前で、私は妹に電話を掛けていました。
看護師の妹なら、詳しい症状がわかるかもしれないと。


どれ位の時間、そうしていたのか。
父と私が処置室の中へと呼ばれました。


診察台の上に横たわった母は裸で
色々な器械のチューブで繋がれていました。


「5分以上の心停止、瞳孔も開き、脳死の状態と考えられます」


心臓蘇生して下さったDr.の言葉が、他人事のように聞こえていました。


こんな筈がない。
こんなことが起こるなんて。


その時の感情はそんな風だったと思います。


頭では理解出来ていても、
母に限っては絶対に助かる筈だ……と。


「延命処置も出来ますが、一度始めたら止められません。どうしますか?」
「生きられる可能性が1%でもあるなら、宜しくお願いします」


即答で返したのは父でした。
期間は問わない、生かして下さいと、Dr.に頭を下げてくれました。
(後にわかったのですが、父も頭では「助からない」とわかっていたそうです)


説明の最中でしたが、叔父(母の兄)からの電話が鳴り退室。
家を出る前に父が連絡したそうで、「どんな様子だ?」と訊ねられました。


「脳死の状態と言われました」
「そうか」


叔父は東京近郊に住んでおり、直ぐには駆け付けられないとのこと。
落ち着いたらまた連絡してくれ、と言われ
そこで母と仲の良かった従姉(母と十歳違い)にメールを送りました。


「個室にしますか?大部屋にしますか?」
「こうしたケースはどちらが良いですか?」
「ご家族にとって気兼ねなくでしたら、個室をお勧めします」


病棟に上げて頂く前、
看護師さんの説明を受けた記憶があります。


泣きながらエレベーターに乗っていたこと。
母の病室が病棟の三階に決まったこと。


その瞬間の記憶が、私の中にはありません。
その何処かで、母の携帯に妹からの電話が掛かってきました。


「もしもし?」
「……お姉ちゃん?」


妹と私は絶縁状態で、話をしたのは四年振りのことでした。


「切らないで聞いて、今、大丈夫?」
「……うん」
「あのね、落ち着いて聞いて欲しいんだけど、お母さんが首を吊ったの」
「……え?」


父が発見した時には息が止まっていたこと。
今、病院に運ばれて、脳死と言われたこと。


「わかった?大丈夫?」
「うん」
「今日はお休み?」
「うん。今から乗れる一番早い新幹線でそっちに向かう」


東京都下に住んでいる妹は、
たまたま休みでTDLに行っていたとのこと。


住まいよりも東京駅が近い為、すぐに帰ると言ってくれました。


妹は上京してからうつを患ったことがあり
母は自分のうつを妹には知らせないで欲しい、と常々言っていました。


心配かけたくない。
内緒にして欲しい。


その頃の私はうつを理解しているつもりでいて、
今より全く正しい知識がありませんでした。


元々、気難しい妹が癇癪を起す度
父、母、私の順に次々と音信不通にするのに腹を立て
「親の葬式にも呼ばない!」と捨て台詞を吐いたこともありました。


姉妹間がぎくしゃくしていなかったら。
妹と情報をシェア出来ていたら。


今でもわかりませんが、
お昼過ぎに妹は病院へと駆け付けてくれました。


看護師として、母の状態を見て
「良く病棟に上げて貰ったね。大したもんだよ」
と明るく笑ってくれました。


実家とも疎遠気味だった妹。
母を任せることにして、私は父と一度、自宅に戻りました。


車内での会話。


「お母さんが首を吊ったって知ってた?」
「お父さんも訊かれたけど、
お母さんが倒れているのを発見した時には、わからなかったんだよ」


父は私と取り合うくらい、母が大好き(いわゆる共依存)
後に警察にも訊かれましたが、
父が……と云う考えは思いも付きませんでした。


話によると父は、
私が作った紅白の応募葉書きを投函する為に、
散歩がてら近所のポストに出掛けていたそうです。


帰宅するまでのたった数分。


晴れていたから。
家族の目がなかったから。


後に妹と一緒にTDLに行っていたお友達が
「紐が用意されていたってことは、遅かれ早かれ決めていたんだよ」と。


それでも、止められたなら……と願ってしまうのです。


母がうつになる数年前に戻りたい。


原因の一端となってしまった自分を、
どうしようもなく許せないままの6年です。

母が倒れた日①

6年前も今日と同じ、良く晴れた朝でした。


階下から私の寝室へのインターフォンが鳴らされたのは
朝9時頃のこと。


その頃の私は夕方からのシフトが多く、生活は夜型。
何かない限りその時間に起こされることはありません。


何だろう、
眠気眼でベッドから起きると、階下からは慌ただしい気配。


「今すぐ来てくれ!助けてくれ!」


父の必死な訴えに、ただならなさを感じ、階段を駆け下りました。


「どうしたの?」
「お母さんが息してない!」


声のする寝室に向かった私が目にしたのは
仰向けに倒れたパジャマ姿の母でした。


父は母の身体を抱き抱えながら、119に通報していたのです。


「何で?脈は?」
「わからない、心臓を押して!マッサージして!」


私に指示を出しながら
父は電話口で「早く来てくれ」と繰り返していました。


その時の私は、母が死んでしまうとは夢にも思わず
冷静に心臓マッサージ、やり方、などを検索していました。


「お母さん!お母さん!」と身体を擦り、声を掛け
電話の合間にも人工呼吸をしていた父と交互に
看護師の妹に電話をかけたりもしていました。


遠くから聞こえてくるサイレンの音。


母が搬送されるのは3度目、
「すぐ誘導できるように通りに出てるね」
と声を掛け、パジャマ姿のままで大通りへと飛び出しました。


息をしていないのは薬の副作用かもしれない……


頭の何処かでそんなことを思い、
母が服用していた薬も持って行きました。


救急隊の方に素早く処置して頂けるよう、
冷静で必死でした。


「どうしました?」
「息をしていないんです」
「心臓も動いてないですね」


駆け付けた救急隊の方たちは、迅速に対応して下さいました。


「これから搬送します。どなたが付き添いますか?」
「私が行きます」


ストレッチャーに乗せられた母の身体。
最初に触った時よりもどんどん冷たくなっていく……


「お父さんは保険証と印鑑、お金を持ってきて」
(その時はまだ、すぐに回復して、家に帰ってこられると思っていました)


3度目の救急、付き添いで乗るのは初めてです。
手続きのことを考え、父には随行して貰うことに。


「希望の病院はありますか?」
「一番早く受け入れて貰えるところが良いです」
「では、最寄りの〇〇病院(総合病院)に運ばせて頂きますね」
「……母に触っても良いですか?」
「どうぞ」


救急措置の邪魔になるからなのか、或いは、別の理由からなのか
恐くて触れられなかった母の足(素足)に触れてみました。


救急車の窓から見える
母と通った道、スーパー、飲食店。


「娘さんですよね、これに見覚えはありますか?」


救急の助手席の方が振り向いたのは、
病院手前の大きな交差点に差し掛かる頃でした。


見せられたのは水に冷やすと冷たくなるネクタイと
妹が、小さい頃の運動会で使っていたハチマキ……


「あります」


ネクタイは何時かの夏に、私が贈った物。
それが何故……


「これがお母さんの首に巻き付いていました」


その時になって初めて、母が自殺を計ったことに気付きました。


「どうして……」


最後に見た穏やかな笑顔が過ぎります。


後に病院でも警察にも訊ねられましたが
自殺の練習(兆候)が全くなく。


もしかすると、サインを見逃していたのかもしれません。


長期間に渡る身辺整理、思い出作りの親戚、家族旅行。
今になって振り返れば、母はずっと死にたかったのかも……


頑張って思い出そうとしても
そこから暫くの記憶が曖昧です。


処置室に運ばれる母。


どうして……


今でもずっと苦しいです。


(※)


閲覧、nice、登録を有難うございます。


未だに親しい友人にも言えず、
一人で抱えてきた気持ちを整理したくて吐露しています。


コメント欄は開けませんが、
何処かで同じ想いを抱えている誰かに届けば良いな……と思っています。