母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

19日目~最後の朝~

9時半
病室で過ごす最後の朝です。


10時からBB、MC


10時半から看護師さん立ち会いによる
家族間のカンファレンスを設けて頂きました。


当時のメモによると


・父はうつの一歩手前
・個人個人、休む時間を上手に作る
(時間配分はケースバイケースで)
・現実逃避→受け入れる準備を(メンタルケアを踏まえて)


・母→精一杯頑張ってる
・父→心の準備を(嫌な考えを追い払っている)
・私達→脳の死(10/19)
    肉体の死(現在)


・父→母は何を言いたかったのか
(その時の論点とはズレている気もしますが、
父は父で19日間ずっと考えていたのだと思います)


・私→父の気持ちを優先


・妹→娘とパートナーは違う(覚悟は出来ている)


・ターミナルケアについて→母に感謝、家族で笑顔を


・看護師さんのモットー
→反省はしても後悔はしないよう、前進
 家族の希望、お母さんの望むこと(安らかに)、どちらでも動けるように


父については連日の心労が祟り、心身共に限界だったのだと思います。
先日の私との口論を相当根に持っており、次にいけないのでは?
が妹の見解でした。


恥ずかしながら、家族で腹を割って話したのも
この時が最初で最後かもしれません。


第三者に介入して頂いて初めて、
私は長年蓄積していた父への不満や感情を吐き出すことが出来ました。
(七回忌を迎える今も、父とは衝突しないように折り合いを付けるのが精一杯です)


一時間に及ぶカンファレンスの末、
家族それぞれの気持ちを優先させよう、の結論に落ち着きました。


その時になって初めて
看護師である妹が、母の命の灯を、時間単位で見ていることも知りました。


カンファレンスが終わって正午から
モニターがずっと鳴り続けていました。


酸素も血圧も下がり、
家族全員が再び病室へと集まりました。


「お母さんもご家族も、もう、十分頑張ったよ」


最後に印籠を渡して下さったのも
19日間、家族を支え続けて下さった看護師さんでした。


マッサージや体交で数値を安定させようとしていた私達に
最期は家族全員でのお別れの時間を作って下さりました。


数時間かけて、緩やかに、母の心拍数は下がっていきました。


19日間、私達の為に生き続けてくれたような母は
やがて静かに息を引き取りました。


それぞれ手足を擦りながら
最期に出てくるのは「ありがとう」の言葉ばかり。


心拍が停止して、先生が臨終の時間を告げて下さりました。


ありがとう、お疲れ様。


最期まで撮り続けた家族の記念写真の中で
母はまるで産まれ立ての赤ちゃんのような、可愛らしい顔をしていました。


どうか、苦しみや悲しみから、解放されていますように。


もし、魂があるのなら
私は二度と生まれ変われなくて良い。


寿命を全う出来たなら、来世の幸せごと、母に返したいのです。