母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

母が倒れた日①

6年前も今日と同じ、良く晴れた朝でした。


階下から私の寝室へのインターフォンが鳴らされたのは
朝9時頃のこと。


その頃の私は夕方からのシフトが多く、生活は夜型。
何かない限りその時間に起こされることはありません。


何だろう、
眠気眼でベッドから起きると、階下からは慌ただしい気配。


「今すぐ来てくれ!助けてくれ!」


父の必死な訴えに、ただならなさを感じ、階段を駆け下りました。


「どうしたの?」
「お母さんが息してない!」


声のする寝室に向かった私が目にしたのは
仰向けに倒れたパジャマ姿の母でした。


父は母の身体を抱き抱えながら、119に通報していたのです。


「何で?脈は?」
「わからない、心臓を押して!マッサージして!」


私に指示を出しながら
父は電話口で「早く来てくれ」と繰り返していました。


その時の私は、母が死んでしまうとは夢にも思わず
冷静に心臓マッサージ、やり方、などを検索していました。


「お母さん!お母さん!」と身体を擦り、声を掛け
電話の合間にも人工呼吸をしていた父と交互に
看護師の妹に電話をかけたりもしていました。


遠くから聞こえてくるサイレンの音。


母が搬送されるのは3度目、
「すぐ誘導できるように通りに出てるね」
と声を掛け、パジャマ姿のままで大通りへと飛び出しました。


息をしていないのは薬の副作用かもしれない……


頭の何処かでそんなことを思い、
母が服用していた薬も持って行きました。


救急隊の方に素早く処置して頂けるよう、
冷静で必死でした。


「どうしました?」
「息をしていないんです」
「心臓も動いてないですね」


駆け付けた救急隊の方たちは、迅速に対応して下さいました。


「これから搬送します。どなたが付き添いますか?」
「私が行きます」


ストレッチャーに乗せられた母の身体。
最初に触った時よりもどんどん冷たくなっていく……


「お父さんは保険証と印鑑、お金を持ってきて」
(その時はまだ、すぐに回復して、家に帰ってこられると思っていました)


3度目の救急、付き添いで乗るのは初めてです。
手続きのことを考え、父には随行して貰うことに。


「希望の病院はありますか?」
「一番早く受け入れて貰えるところが良いです」
「では、最寄りの〇〇病院(総合病院)に運ばせて頂きますね」
「……母に触っても良いですか?」
「どうぞ」


救急措置の邪魔になるからなのか、或いは、別の理由からなのか
恐くて触れられなかった母の足(素足)に触れてみました。


救急車の窓から見える
母と通った道、スーパー、飲食店。


「娘さんですよね、これに見覚えはありますか?」


救急の助手席の方が振り向いたのは、
病院手前の大きな交差点に差し掛かる頃でした。


見せられたのは水に冷やすと冷たくなるネクタイと
妹が、小さい頃の運動会で使っていたハチマキ……


「あります」


ネクタイは何時かの夏に、私が贈った物。
それが何故……


「これがお母さんの首に巻き付いていました」


その時になって初めて、母が自殺を計ったことに気付きました。


「どうして……」


最後に見た穏やかな笑顔が過ぎります。


後に病院でも警察にも訊ねられましたが
自殺の練習(兆候)が全くなく。


もしかすると、サインを見逃していたのかもしれません。


長期間に渡る身辺整理、思い出作りの親戚、家族旅行。
今になって振り返れば、母はずっと死にたかったのかも……


頑張って思い出そうとしても
そこから暫くの記憶が曖昧です。


処置室に運ばれる母。


どうして……


今でもずっと苦しいです。


(※)


閲覧、nice、登録を有難うございます。


未だに親しい友人にも言えず、
一人で抱えてきた気持ちを整理したくて吐露しています。


コメント欄は開けませんが、
何処かで同じ想いを抱えている誰かに届けば良いな……と思っています。