母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

母が倒れてから

七度目の今日。


曜日が一周した今年は
特にしんどい気持ちです。


母が亡くなった6年で
出来なくなってしまったことが沢山あって、
休日に出掛けるのもその一つ。


身支度、化粧、正しい食生活
お風呂や歯磨きさえ、
しんどい時には何一つ出来なくなっていました。


今日はお天気も良かったので布団を干して
のんびり昼寝をしていました。


「時間が勿体ない」
「人生を無駄に生きている」


それでも良いんです。


何も考えずにのんびり過ごすことも
心と身体の栄養となりますよね。


回顧録と日記が
同時になってしまっていますね。


色々、思い出しながら
最後まで記していきたいです。

2日目③

父と母はお見合い結婚でした。


父は内弁慶で友達が少なく、
母に「妻」「自分の母親」「友人」としての依存をしていました。


子育てに関しては、
お金は出してくれるけど関心(興味)がなく
母が妊娠中も、夜な夜な麻雀にふけっていたそうです。


家族での食卓の思い出は
何時も父と母の「大人の会話」が中心です。


私へ振られる話題は、大抵が駄目出し。
泣けば「痛いの痒いのは言うな」と叱り付けられ
涙で滲んだお吸い物を啜っていた記憶しかありません。


四つ下の妹は無邪気で
幼稚園や学校での出来事などを報告していました。


私には、どうやったら会話に加われるのか
まるでわからなかった……


母の手が空かず、父と入浴するのを嫌がって号泣した時も
「近くの森に捨ててくるぞ!」と癇癪を起され
(父は観たいテレビがあるので苛立っていたそうです)
抑圧され続けた感情は、今でも爆発させないと表に出すことが出来ません。


思春期の頃には父のサンダルを庭に投げ捨てたり
壁に穴を開けたり
小さな家出を繰り返しては、
友達や恋人宅の食卓に混ざり込む、と云う生活を繰り返していました。
(余所の家庭に団欒を求める)


父親は


・優しい
・気が弱い
・意固地で頑固
・人の話を聞かない
・行きずりの他人相手に漫談をし、自己満足に浸る


母が亡くなって6年
今でこそ普通に話せるようになりましたが
それでも、普通の親子で言えば出発点くらいの遣り取りが精一杯です。


父と妹は昔から相性が良く、
母の死後間もなくは、妹が旅行に連れ出してくれたりと、
随分助けて貰いました。
(妹にしても、母に出来なかった親孝行を、
父に返したい(二度と後悔したくない)想いがあるそうです)


父も母も末っ子同士、
長子だった私への躾けは厳しく


・習い事は何でもやらせる
・自分の価値は周りの友達で決まる


と強い信念があるようでした。
(友人関係への口出し、過干渉も)


思えば母方の祖母も、
出稼ぎで不在の祖父に代わって家を預かり
殆ど女手一つで祖父の兄弟と四人の子供たちの面倒を見た立派な人でした。


働き詰めの背中を見て育った母もまた
働くことは立派だと、暇を惜しんで内職などもしていました。


計画的で、老後の貯蓄も完璧。


結果的に父や子供たちはダラダラと過ごし
ギャンブルや趣味や買い物に依存しては、
支給制のお小遣いだけでは足りなくなって……と言う感じでした。


父→ギャンブル
私→友人
妹→恋愛


と依存していたのは、
母の一番が祖母だったからなのかも。


今でも時々、
母は私たちよりも祖母を選んだんだな……と
そんな風に考えてしまうのです。


妹曰く
「うちの愛情表現はお金を掛けること」だそうで。


そうして考えると、
惜しみない愛情を注いで貰ったのだと思います。


私たちが考えているよりも、
もしかしたら、ずっと、深い愛情で。


それでも、


「良い子でいなければならない」
「親に口答えをしてはいけない」


抑制され続けた結果は、自己肯定欲の低さ。
それから辿り着いた一つの答えは


「条件付きの愛情」


憎しみを抱きながらも、親子で共依存する。


根本的に追及すると
母もまた、そんな子供時代を過ごしてきたのかもしれません。
(三男一女の末っ子だったため、早々に親元から離されたと言っていました)


文章が上手く纏まらなくてすみません。


自己肯定欲は低いのに自尊心は高く
どの機関にかかっても本音を打ち明けることは出来ませんでした。


他人に共感出来ない、
依存する割に相手の気持ちは考えられない。


そもそも、執着以外の興味がない。


調べれば調べるほど
自己愛が強い自己中心的な人間です。


社会では擬態している癖に、
普通じゃないとバレるのを怖がっている。


母について話せないのも、父の気持ちや体裁からだけでなく
本当の自分を曝け出せる相手がいないからなのかもしれません。


友達はいます。
少ないですが、大切にしたいと思える友達です。


中には、伴侶や恋人が自死したと打ち明けてくれた友達もいますが
「実は私のお母さんもね」と切り出すことが未だに出来ません。


今日は寝ます。
読んで下さりありがとうございます。

2日目②

延命措置をして頂く際に
「長ければ何年も、短ければ数時間と云うもの」と説明して頂きました。


元気な時の母は
「脳死になったらそのまま延命はしないで」と話していましたが、
実際の死を目の当たりにして、思い出す余地もありませんでした。
(更新前の免許証までは、臓器提供にも〇がつけられていました)


母がうつになった経緯、理由は後々綴れたら、と思うのですが


・生真面目で几帳面で他人に気を遣う(遣い過ぎて損をする)
・明るくお調子者な反面、神経質で細かく、自分にも子供にも厳しい
・何でも卒無く熟す分、子供に求める理想も高い


など。
その要因となる性格、気質は元々あったのかもしれません。


一番の原因は恐らく、大好きだった祖母の死。


祖母の世話、自宅介護、入院中の世話、退院後の引き取り
と、祖母は母において、最も大きな存在でした。


父の元へ嫁いだのも、


・実家に近い
・実家を安心させるため


嫁いだ当初、同居していた曽祖母、祖父母と世話をし、看取り
「〇〇ちゃん(母)は立派だ」と言われることも
生き甲斐の一つだったのかもしれません。


妹が幼稚園に通い始めてからは
働きながらも運転免許を取り
家計を助ける為に、ひたすら汗をかいて働き続けました。
(そうして貯めた貯金を、父が秘密裏に使い込む悪循環だったようです)


父の実家に内孫を産み、
その安定を私たちにも願い続けた……


周りのお友達にお孫さんが出来始めたことで
話の輪に入れない、と落ち込み
私たちに重圧を掛けながらも、どんどん塞ぎ込んで行きました。


母にとっての祖母は、私にとっての母と同じで
共依存の一番の相手だったと思います。


私自身も祖母のことは大好きでしたが
祖母が亡くなった時に初めて、
「家族の時間が帰ってくる」と思いました。
(父は母が大好きだったので、介護に理解を示す、協力的になることで
良いパートナーになりたかったのだと思います)


母が妹から絶縁された時も
「お母さんは、孫が欲しくて私たちを産んだの?」
「そうだよ。子供なら、それが当たり前の親孝行」
と言った、売り言葉に買い言葉が原因でした。


父も私も妹も、
「話し合っても無駄だな」と思った時点で
黙って対人関係を切ってしまう乱暴な箇所があります。


妹は物理的な距離もある分、
母子間の関係が修復してから
(それまで家族とのパイプ役だった私とも、妹が連絡を絶ったため)
も、常に顔色を窺っている節は感じられました。


祖母が亡くなって直ぐ
お葬式の席で姉妹間が気まずくなり
母自身も実家の兄嫁とのいがみ合いが悪化して
本当に辛かったと思います。


暫くの間は父と二人で海外旅行に行ったり
気丈に振る舞っていたのですが、
父からも私からも妹からも家族の愚痴を聞かされ続け……


その頃、母が叔父(母の兄)と電話で話す内容は
実家の兄や兄嫁に対する愚痴や恨み言ばかりでした。


他人の悪口など、一切、口にしなかった母が……


これも後から知るのですが
兄嫁からは相当、辛辣な嫌味を言われ続けていたようです。
(日記にも「死んでも許せない」と強い言葉が記されていました)


母を巡っての家族の対立
実家の兄・兄嫁対兄弟間の確執……


すみません。
落ち着いたらまた続きを書きたいと思います。