母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

姉妹

法要で帰省していた妹。


実家で好き勝手を黙って見ていたのですが
数日間の滞在で、とうとう叱り付けてしまいました。


自分の常識と妹の常識。
常識と非常識。


個々の人間は違うと理解出来ています。
思考も嗜好も何もかも。


妹と絶縁状態になったのは数年前、
母方の祖母が亡くなった時でした。


妹は親戚付き合いを嫌う割に、冠婚葬祭では張り切るタイプ。


迎えに行った私の新車、
後部座席のシートにキャリーの車輪側から乗せ
その時点から私のイライラは始まっていました。


妹は運転免許がないので
お見舞いや帰省する度に車を出していたのですが
それが当たり前になっていたんだと思います。


告別式の帰り、
同じように足のない従兄夫婦を実家まで送るよう母に頼まれた時
東京方面まで一緒に……と勘違いした妹が「絶対に嫌!」と口答えしてきたのです。


説明不足は否めませんでしたが、その態度にもかなり苛立っていました。


いざ、最寄り駅に送る時になり
さっさと助手席に乗り込んだ妹は、親戚が車まで挨拶をしに来た時も
携帯片手に頭を下げただけでした。


「さっきの態度は何なの?」


イライラをぶつけのは、従兄夫婦を実家に送り届けた後でした。


そこから自宅に向かっていた私は、
妹の態度がふてくされているように見えたのです。


「挨拶にしても、窓を開けるなり、車から下りようとは思わないの?」


私だって、滅多に帰ってこない妹に、そんなことを言いたくはありません。
それでも不満を爆発させると、妹は「……そうね」と言ったきり無表情になり
何一つ言葉を発しなくなりました。


母が病に伏した時も、本当に「無」になるのを何度か目にしてきました。


妹にとっては「防御」の一つだったのでしょう。
後々、母に「どうせ何を言ったところで姉には否定される」と言ったそうです。


そうして黙り込む癖に、数年後
何年経ってもぐちぐち根に持ってると言われ続ける。


今回の帰省にしても同じです。
不満や不快を伝えたところで、きっと何年も怨まれ続けるのでしょう。


気軽に言いたいことも言えない。
遠慮の使い方が間違ってる。
良かれと思って……が相手にとっての有難迷惑になってしまう。
その癖、恩着せがましい。


私を含む家族共通の性格です。
すごく、すごく、生き難いです。


私は認知を変えようと努めているのですが、
未だに一般的な正解がわかりません。


祖母の葬儀をきっかけに絶縁状態になった姉妹間。


その原因を作ったのもまた自分……
母の悩みはどれほどだったのか、母以外にはわからないのです。
(「言った」私よりも「言われた」妹の拒絶は母が倒れるまで続きました)

幸せの定義

幸せって何だろう
幸せと不幸せ


母を亡くしてから、普通がわからなくなってしまった。


信じていたもの、価値観
常識、非常識も。


母を亡くすまで、いわゆる普通の家族だと思っていました。
家族間の不仲や諍いも、母を追い詰めるまで、良くあることだと思っていたのです。


母が亡くなる前から、良くしてくれる友達がいました。
母が亡くなってからも何かと気にかけてくれ、食事会にも誘い出してくれました。


有難い気遣いを受ける一方で、ちゃんと出来ない自分に疲れていました。


彼女達はちゃんとしている。
親御さんや旦那さんを亡くされてる友達も。


ちゃんとしなきゃと思う一方で
気付けばメイクを忘れて出かけたこともありました。


楽しいけど辛い。
しんどい気持ちが大きくなり、ある日、突然グループから抜けてしまいました。


本当なら、次第に、徐々に……
その手順さえ踏めないくらい苦しかったのです。


あんなに良くして貰ったのに。
自分本位な行動で、友達を傷付けてしまった。


今でもグループは苦手です。
二人以上の行動を避けるようになりました(ベストは一人です)


亡くなる直前、
母は私を不憫でならないと言って泣きました。


世間知らずだから?
家から出ないから?
他の友達と同じように、結婚して子供を産まないから?


同級生のお母さんにお会いした時
娘はまだ一人だけど、元気で幸せなら良いのよ!と。


他のお知り合いが言って下さる言葉も
母は他人事だからそう言えるんだよ……と
認知を変えてくれることはありませんでした。


私は変わったことがあります。


失礼な人には
失礼を働いても良い相手と思われてる。


自己愛、自慢話、上から目線の人から離れる。
劣等感を抱く人、モラハラからも全速力で逃げる。


そもそも他人に期待しない。


以前ならこんな私で良かったら……と
話の聞き役に徹していました。


人間的に難ありの人と仲良くなって
それこそお母さんのように、まともになって貰おうと
そんな共依存を繰り返していました。


そもそも、相手にとってのまともなど
世間で言うまともからはズレているのに。


常識、他人の顔色、道徳心や倫理観。
全てが崩れました。


やがて、私が私じゃないことに気付き始めました。
どうしようもなく空っぽで
何か一つ決めるのも相手優先。


自分の意見など後回しで丁度良いのです。


そうしている内に、自分は意思の無い人間なんだな……と
次第に気付き始めました。

七回忌

家族だけの七回忌でした。


お経を上げて頂き、自宅に帰る。
会食も無い、ささやかな法事です。


お経を上げて頂いている間、父はすすり泣いていた気がします。


何年経っても寂しいし、
思い出す都度、辛いんだな……と改めて思いました。


父の全てだった母の存在。


喪失感はどうやっても補える筈もなく
最近では私と会話する機会もだいぶ増えてきました。


以前は口を開けばぶつかり合い。


成人してからも
癇癪で殴る蹴るをされたこともあります。


同じ家に居ながらも両親と対立して
二ヶ月間、顔も見ず、口をきかずの時もありました。


今にしてみれば、
何て勿体無い時間を費やしてしまったのでしょう。


お互い、同じ後悔からなのか、
最近では、お互いを尊重し、譲歩し合えるようになってきました。


父は口を開けば
買い物に行った話、テレビや新聞の話題。


私や妹のように、外の世界に出る機会も少なく、
最近では旅行も億劫がるようになってきました。


私が「お父さん、あれして、これして……」と
少しずつ用事を頼めるようになったのも、つい最近のこと。
(以前は、家族間でも、貸し借りを作りたくない空気がありました)


父の存在意義。


後悔の念を少しでも軽く出来たらと、
母を失ってから学べるようになったのです。


当時の日記がない為、告別式後の記憶が余りありません。
多分、何時もと同じように、仕事で紛らわせていたのでしょう。