母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

2日目①

当日の手記(心拍数やbpを記したもの)が出てきました。


2日目の朝は父方の叔母からの電話で目が覚めました。


母が首を吊った事実を
父は女兄弟には打ち明けたようで、
長姉である叔母からは様子を訊ねると共に、激しい叱責を受けました。


「貴女がしっかりしないから!」
「何時までも甘えて、お母さんに心配かけて!」


母が自宅に戻って来た時もそうでしたが
叔母に言われた言葉は今でも胸に刺さっています。
(母も私も、父の兄弟には父の浪費癖を伏せていました)


身支度や母の入院に必要な物を整え病院に。


お早う、と出迎えてくれた妹の前で、
「叔母さんにこんなことを言われた」と泣いてしまいました。


泣いていてもどうにもならない。


入院初日にも、ベテランの看護師さんに
「お母さんが頑張ってるんだから、歯を食い縛らないと」
「貴女が泣いてたら、お母さんも悲しむよ」
と叱咤激励を頂きました。


叔母さんとは異なる、温かみのあるもの……


入院初日の記憶がない中、
救急で運ばれた際に切られたパジャマや下着(応急措置のため)
病棟に運ばれた際、外して頂いた結婚指輪(後々むくんでしまうため)


それらを私が管理することになりました。


入院初日は父方の叔母たちが
2日目は、昨日来られないと言った母方の叔父(母の兄)たちが来てくれました。


当時の手記によると、この日はずっと心拍が高くbpが低い。


一旦東京へ戻った妹に代わり
父と二人で病室に泊まりました。


父は病院内の内科で処方して頂いた安定剤と睡眠薬を。
私は引き続き睡眠導入剤を飲んでの就寝です。


この頃はいわゆる危篤状態が続き
夜中、何度もモニターの音が鳴り続けていました。
(その都度、誰かしらが様子を見に来て下さりました)

一度目の峠

パーキングチケットから振り返ってみると
母の一度目の峠は日付けが変わった頃~二時半でした。


バイタルが130~80に下がり危ないかも、
ご家族を呼んで下さい、との伝達で駆け付けたのですが、
体交して頂く際に、機械との接触不良が起きたのかもとのこと。


個室には二人泊まるのが限界の為、
父と妹を残し、私は再び自宅へと戻りました。


(※)病院は完全看護体制でしたが、
事情が事情でしたので、家族の介入を許可して下さりました
(※)結論から言うと、看取りまでの入院期間
病院関係者様、全てのスタッフ様の手厚い看護に感謝しています


その頃、入眠し難い際に飲んでいた
市販の睡眠導入薬を飲んで、無理矢理ベッドに潜ります。


昨夜はこんなことになるなんて、思ってもみなかった。
起きたら全部夢でありますように。


現実味はないのに、
ただただ涙が止まりません。


今日も少しずつ、時系列で纏めてみたいと思います。
読んで下さりありがとうございます。

母が倒れた日④

時系列で纏めている為、
正しくない記憶や知識があると思います。


当時の私も、身内にうつを抱えながら
今よりずっと偏った目で見ていました。


母が亡くなってから
日常を取り戻そうとする心とは裏腹に
心身ともに病んでいきました。


自身も心療内科、クリニック、カウンセリング
と渡り歩き、それでも、病んでいきました。
(振り返ることが出来るようになった最近まで、そこまでの自覚はありませんでした)


母や妹以外にも近しい友人がうつになったと話を聞いてきました。


物分かり良く話を聞いていた一方で
うつの表面しか理解出来ていなかった。


妹のうつを甘えと決め付け
母がうつかもしれない、と告げてきた時も
「そんな筈はない」と否定してしまった。


うつを受け入れたつもりでも
母の気持ちに寄り添うことは出来なかった。


頭でっかちの知識より、
ただ抱き締めることが何故出来なかったのか。


大丈夫、一人じゃないよ。


言葉でそう告げながら
根本的な原因の改善をしようともしなかった。
(父と私それぞれで、母の介護を競い合ってる状態でした)


父の実家に嫁ぎ、
お嫁さんとして完璧だった母。


炊事や掃除洗濯が出来なくなって、どれほど心苦しかったことか。


「本当なら、貴女がお父さんの世話をしなければならないんだよ」


そう言われ続けても
父を憎み、妹に腹を立て、私は私の生活を送り続けていました。


母を失うことに比べたら、どんな努力も出来た筈なのに。


誰に指摘されるまでもなく、親不孝で最低な娘です。


たくさんの人に依存し、或いは、依存され、
母の重圧はどれほどだったのか……


今日は寝ます。
読んで下さり、ありがとうございました。