母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

5日目

7年前も雨でした。


早朝、母の兄嫁から電話が。
実家の立場として、お葬式の予定が気になったようです。


二度寝してからドラッグストア経由で病院へ。


低体温の機械を外して頂いたので
パジャマを持って行ったのですが、
前開き(入院用)ではなかった為、母の身体に被せて頂きました。


連日に渡る病院泊で父も疲れていたのか、
看護師さんの前で泣き崩れたと聞き、ついついキツく叱ってしまいました。


「それぞれが辛くても、踏ん張りどころでしょ!」
「泣くのは後にして!」


今にして思うと、冷たい娘ですよね。


「お父さん、大丈夫?」
「疲れてない?」


などの優しい言葉は、多分、一度も掛けられませんでした。


(思い出したので追記)


・私と妹は交互に寝ずの番(マッサージや体交ヘルプなど)
・父は就寝時間になると薬を飲んで朝まで起きない
・寝不足と疲れで苛々しているところ、
朝、近くのコンビニでおでんを買って来てくれた父に
「寝ていた人は呑気で良いよね」と嫌味を言ってしまう
・父は、「せめて娘たちに温かいものを」という気持ちで買って来てくれたのに
キツくあたられて看護師さんの前で泣き崩れる……と云う経緯でした
・意思疎通が出来ない哀しさ


お葬式の時、その後も、


「娘とパートナーは違う」
「お父さんを労わってあげて」


など、声を掛けて頂いたのですが
自分自身が辛くて、母を亡くしてしまった哀しみで精一杯で
父に対しての当たりも、今よりずっとキツかったと思います。


「お母さんもスタッフの方々も、皆、頑張っているのに」


父は以前、白内障で手術が必要ですと診察を下された時も
待合室にいた母の前で大泣きしたそうです。


私からしてみれば


「良い歳をした大人が」
「人前でみっともない」


と恥ずかしく思っていたんだと思います。


妹は良く
「お父さんは、父親っていうより、私たちの長男だよね」
と言うのですが、素直で純粋で、子供のままなんですよね……


そう納得するまでに、数年を要しましたが
母はそれらの全てもひっくるめて、父のことを好きだったんだと思います。
(見捨てられない、見限ることができない)


午後、自宅の妹に連絡をして
前開きのパジャマを持って来て貰う。


父親は久し振りの自宅へ。
母方の叔父さんと三人で夕食となったのですが、
叔父さんは世間で言うエリートの割に何処か浮世離れしていて……


・一緒のお鍋で作れば済むインスタントラーメンを、三種類買ってくる
(好きな味を選べるから)
・いつ何時、病院に向かわなくてはならない状況下で、ビールを勧めてくる
(良く眠れるよ、の理由で)
・送迎要員としても来て貰っていたのですが、
新しい道路が開通したらもう病院の場所がわからない
(父が贈ったカーナビは頑なに車載拒否)


有難いことに変わりはなかったのですが
病院の往復と叔父さんのハプニングで、神経衰弱な日々の始まりです。


今では笑い話に出来るのですが
当時はトラウマになるくらい、叔父さんに振り回された数日間でした。
(振り回されたお陰で気丈に振舞うことが出来た気がします)

4日目

この日から母方の叔父(母のすぐ上の兄)が
家族のヘルプに入ってくれることとなりました。


叔父は東京の大学を出て大手企業に就職。
母の上京(専門学校)に一役買ってくれた恩人です。


父はすっかり憔悴し、家族の負担も減らそうと
叔父を呼んでくれたのでした。


母の容体は相変わらずで
出来ることと言えば体交やマッサージなど。


病院での付き添いは、早朝、昼間、深夜問わず。
交代制で自宅に戻り仮眠、と言った生活が続きました。


関係者の方にしてみれば、
家族の介入はご迷惑だと自覚もありました。


その時はただ、


「母を一人にしない」
「後悔を残さない」


と言った想いを胸に、病院側の御厚意に甘えていました。
(今でもずっと感謝しています)


今日、明日、明後日、或いは数年後。


母との別れを覚悟する一方で、
肉体は生きている(正確には、生かして頂いている)という
一抹の希望に縋っていました。


精神の死。
肉体の死。


母はもう、戻ってはこない。
でも、触れられるものに、最期まで依存していたのだと思います。
(母が倒れた次に辛かったのは、荼毘にふす瞬間でした)


3階にある母の病室。


エレベーターに乗る度
「も」「ど」「れ!」と言って釦を押すのが父の習慣となっていました。


自死を選ばなかったら。
肉体だけでも生き続けていられたら。


母はそれでも幸せだったのでしょうか?


家族のエゴで言えば
どんな姿でも生きていて欲しかった。


自死を選ぶ瞬間


「家族が悲しむ」
「誰も悲しまない」


そんなことを考えたり
或いは、考える暇もないかもしれません。


決行する間際には、それさえも考えられないと。


わかってはいても、辛いです。


ほんの少しの喜怒哀楽の合間にも
ずっとずっと辛いのです。


後悔や自責の念。
どこからやり直せば……やり直せれば……


産まれてきたのが自分でなかったら
ほかの子供だったなら、母は今でも生きていたかもしれない。


とうやっても、母が生きていた頃の自分には戻れない。


そう気付くまでに6年。
辛くて苦しくて死んでしまいたい時もあった。


辛うじて踏み止まれたのは、憎くて仕方なかった父の存在です。
父に、同じ想いを二度もさせてはならない。


その頃、茶の間の奥から
くしゃくしゃに丸められた遺書の下書きが出てきました。


「お父さんへ、〇〇(私の名前)と仲良く暮らして下さい」


日付けは一年前の夏。


「その頃から決めてたのか……」
「一度は思い止まったんだね」


メモが見付かった時の父と妹の言葉。


今でも、何か言葉が欲しい。
本当の親子の言葉で。


遺された家族のバラバラだった絆を
母は命を投げ打ってでも繋いでくれたのかな……
そんな風に思える夜もあります。


ただ、「母を殺してしまった」と思えてならない夜は
本当に苦しくて、ただ、どうしようもないのです。

3日目

早朝、病院で起床。


薬が残っているのと寝起き
PMSで情緒が不安定。


母の容体に変わりはなく、
ずっとベッドに横たわったまま。


Dr.には
「瞳孔も開いたまま、変わりはない」と診察して頂き


看護師さんからは
「耳は最期まで聞こえるって言うから、声を掛けてあげてね」
と優しいお言葉を頂きました。


(この頃には家族で看取る為の、チームを組んで頂いていました)


父は日中も安定剤を飲んでいて、運転が出来ない状態。
母の傍にいたい
(危篤状態が続いていたので、もしもの時には真っ先に駆け付けていたい)
の意思を尊重し、私が自宅に戻りました。


静まり返った自宅。


出来ることと言えば


・整理
・入院に必要なものを揃える


くらい


午後は妹と彼氏が来てくれるとのことで、
「母ならこうするだろうな……」と思ったお土産を買い
病院へと戻りました。


「初めまして、両親と妹が、お世話になっています」


妹の彼氏と初めての挨拶は、母の病室でした。


彼は、妹の良き理解者で
私が妹と絶縁している間も、
二人で実家に来てくれたり、妹と両親の旅行に付き合ってくれたりと
当時は本当に有難い存在でした。


妹が両親を東京旅行に招待した時、
我が家では「夕方に雨戸を閉める閉めない」で大喧嘩でした。


私も適当に「閉めておく」と言えば良かったのですが
妹の当てつけのような企み(本当は姉妹二人で両親のお祝いをする筈でした)が
面白い筈は勿論なく
父も父で「自分が旅行に行けないから拗ねてるんだろ」との禁句を……


本来なら楽しい筈の親子旅行も
旅行中も、私のことが気掛かりだったのでしょう。


帰宅してから
「連絡の一つも寄越さないで」と嫌味を言ってしまった私に


「連絡をしたら、可哀想だと思った」
「姉妹で仲良くして欲しい」


グレープフルーツを食べていた母は
食べながらもわんわんと号泣し始めました。


色々、重なった上
張り詰めていた糸が切れた瞬間です。


その頃はまだ、妹への恨み節が強かったのですが
彼女は彼女なりに、彼氏と一緒に親孝行をしてくれたのだと思います。


「遠路はるばる、有難うございます」


妹の恋人で、実家や両親にまで関わってくれたのは
その時の彼氏が最初で最後です。


有難い思いで見送った後
母方の実家の従兄(長男)と父方の叔母さんが様子を見に来て下さりました。


この時点で私たち家族は、母の兄と兄嫁を出禁にしていたのですが
息子である従兄は話の通じる優しい人です。


母のことも「〇〇ちゃん」と慕ってくれて……
母が仲の良かった従姉と共に、良くして下さりました。


やがて病院に戻って来た妹と父を残し、
この日の夜は自宅へ。


21時から友人へ電話しているのですが
相手が誰で何を話したのか、どうしても思い出せません。


母が入院中は


・遠く離れた友人
・旦那さんを自死で亡くした友人
・数年前にお父さんを亡くした友人
・自宅でお母さんを看取った知り合いに


「母が入院した」
「意識がない。最期はどうしたか」
「家に戻れた場合は、どのように看病をしたか」


など、相談させて貰っていました。


父→絶対に助かる
妹→看護師として冷静に命の灯を見ている
私→助かって欲しい一方で、お葬式の服などを買いに行く


今、思い出しても、
すごく寂しいし悲しいです。


妹が礼服を持ち帰ったのも
父が家族の口座が凍結されないよう、銀行へ通っていたことも
当時の私は全く知らずに過ごしていました。