母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

16日目

峠を乗り越え、
母も私達も落ち着いていました。


母の数値を記したり、
お洒落が好きだった母の、身形を整えたりと、
危篤前のペースを取り戻しました。


その時にして思い返すと、


・お洒落に興味がなくなる
・見た目を酷く気にする
・気に入っていた服を手放したり、新しく買い直したりする
(私には、痩せてサイズが合わなくなったから……と説明していました)


の傾向があったと思います。


元々、神経質な箇所があるので、
「はいはい、また」と聞き流していたのが、
今となっては本当に悔やまれてなりません。


倒れる直前まで、便秘と下痢を繰り返し、
異常なまでに気にしてその都度薬を買いに行ったり。


死にたいと口走りながら
内視鏡の検査を受けに行ったりと
私からして見ればちぐはぐな言動が続き、
適当に受け流す癖がついてしまっていました。


うつに辿り着くまで、何軒も病院を訪ね歩き
診察の送り迎えでは、無表情な岩のような母を乗せて行ったこともありました。


それらの全て、全部が母のSOSだと思うと、
自分が情けなくて、許せなくて……


二度と会えなくなるくらいなら
お別れがわかっていたのなら


幾らでも話を聞いて、優しく笑うことが出来たのに、と思ってしまうのです。

15日目~二度目の峠

11/2(金)


母が倒れてから二週間、
二度目の峠も朝でした。


父から「先生から今夜が峠と言われた」と。
その報せに、取るものも取らず病院へと向かいました。


先生の診察によると


・血圧は安定している
・酸素、肺、心拍数の低下
・脳がダメージを受けている
・明日まで保つかどうか……


とのことでした。


頭では理解出来ていたつもりでも、
何処かで「このまま助かるのでは」と思っていました。


瞬き一つ、
指一本動かせなくても、
母はこのまま生きてくれる……と。


とても烏滸がましいのですが
母も「生きようとしている」と思っていました。


倒れた当日の峠を乗り越え、
気管切開、容体安定と、
家族と「生きよう」としてくれているように見えたのです。


私達がそう思いたいだけかもしれない。


或いは、母の生命力が強かったのかも。


15時
昨日、帰京したばかりの妹が
危篤の報せにトンボ帰りしてきました。


不思議なことで
足をマッサージしたりしている内に
母の容体が落ち着いてきたのです。


「私が帰ったもんだから、拗ねて困らせたいんだね」


やっぱり明るく笑った妹の笑顔、逞しさに
どれほど救われたことでしょう。


妹は看護師のスキルを余すことなく発揮して
何よりの親孝行をしたのです。

14日目

10時起床。
少しずつ疲れが溜まっていく。


心の拠り所は


・むくみを取る
・点眼、口内ケア
・母の数値が安定する


でした。


返事の返ってこない母に話し掛け、
母の好きな音楽を流し、
戻ることのない時間を嘆いては前を向く。
その繰り返しでした。


年齢的には、父の心労も重なり
付き添い用の簡易ベッドの延長申し込みをする際に
泊まりのローテーションに父方の叔母を入れて欲しいと言ってきました。


そんな不安もある中、
十日間、介護の軸だった妹が東京に帰る日となりました。


職場を休み、
父と私を介護に介入させてくれ
二人の都合を最優先に動いてくれた妹には感謝しかあません。


母と最期の別れになるかも……
後ろ髪引かれる想いで帰京した妹の気持ちを考えると
言葉では言い表せないのです。