母と過ごした19日

2012年10月19日 母は寝室で首を吊りました。脳死から心肺停止までの看取り期間。機能不全家族の果てのうつ、ママと自死遺族の苦しみを綴っていきたいです。

門送り~斎場へ

母が自宅を出る朝、
ホテルをチェックアウトしたから、と叔父家族が家にやってきました。


特に妹は、親戚付き合いが苦手です。
門送りも家族だけで、と話し合いをしていた矢先に……
お茶を振る舞ったりとバタバタに拍車がかかります。


「母の好きだった食べ物を持って、斎場に向かって下さい」


咄嗟に、用事をお願いして
お茶の片付け、火の元、戸締り。


霊柩車に運ばれる母の遺体……
妹が乗り込むのを見届けて、父とはバラバラに斎場に向かいました。


母の好きだった物を買い足したり、と
斎場に向かう途中で、親戚の叔父、叔母を見付けました。


東京に住む叔父、叔母とは訳あって疎遠になったのですが
母にはお世話になったから、と、わざわざ駆け付けてくれたのです。


斎場まで車で送り届けると、


笑顔の母の写真、家族の写真、お礼状の言葉


がボードに貼り出されて出迎えてくれました。


質素なプランながらも
母の好きだったカラーでポスター、装飾して下さり
とても有難かったです。


叔父、叔母は兄弟とも疎遠だった為、
親戚一同、再会を喜び、涙ぐんでいました。


「こんな姿になっちゃって……」


母が嫁いできてからは、特に親密だった叔母さんは
心からのお悔やみを述べて下さりました。


少ないながらも、所縁のある親戚一同が集う。
そこに母が居ないのが、不思議でなりません。


母が生きていたらきっと、粗相のないように、と
細かく指示を出していたでしょう。


母に代わって、粗相のないようにしなければ……


喪主である父は、お金と名義上の責任です。


斎場の方との打ち合わせ、進行など、
全ての責任が私に圧し掛かっていました。
(進行のひな型を頂くのですが、大変な情報量でした)


「泣いてしまうから、喪主の挨拶はしない」


その言葉に、家族それぞれ母への手紙を
私が代読することになりました。


妹は自分で読み上げたかったようですが、
進行上、私が纏めて……と云うことになりました。
(今でも根に持っているそうです)


それぞれが書いた手紙の内容は


・父→母との馴れ初め、思い出、感謝
・私→日記に挟んであった、私と妹の名前の由来、母との思い出、感謝
・妹→母からの言葉、思い出と感謝


そこには入院中の思い出も含まれていました。


冠婚葬祭のマナーもまだまだ知らず……ただただ必死でした……

通夜前日

母が自宅に帰って来て翌日
不謹慎かもしれませんが、私は午後から仕事を入れていました。


シフト的に休めなかったのと
十日後に大きな仕事が控えていたからです。


午前中からお昼過ぎまで
葬儀屋さんとの打ち合わせ、母が亡くなった連絡、と
休む間もなく動き回っていたのを覚えています。


家族葬にする為に、
父は組内に頭を下げてくれました。


私と妹は、遺影に使う写真選び
(着物と背景を合成するので、その組み合わせも含め)
父の選んだ葬儀プランについて来る、
花の種類や骨壺の選択、など。


お昼を回った頃、葬儀屋さんの別の部署から電話がかかってきました。
参列して下さる方のお礼状を作成するにあたり


・どんなお母さんでしたか?
・何が好きでしたか?
・家族の思い出は?


などのアンケートを取って下さったのです。


丁度、遺影に使う写真を探していた私は、
思い出話に思わず涙ぐんでしまいました。


電話口の女性は優しく丁寧に心情を汲んで下さり
この上無く素敵なお礼状を作成して下さりました。


遺影の他に数枚の写真を飾って下さるとのこと。


・父との写真
・私との写真
・妹との写真


そうして観ると改めて
家族四人が写った写真は、私達の子供時代が最後です。


母が倒れるまでバラバラに会ってはいても
四人揃うことは数年間ありませんでした。


次に、斎場で流す音楽


・父と母の思い出の曲
・母が好きだった歌手の曲
・母がカラオケで良く歌っていた曲
・入院中ずっと流していた、母がテーマの曲


こちらを選びました。


音楽を編集するのと同時に
棺桶に入れるものの選別、母の私服、好きだったもの……


そうこうする内に、仕事の時間に。


なるべく心残りを少なくしたくて、
最後に、母が行きつけだった美容師さんに電話を掛けてみました。


「母が亡くなりました。最後に、髪を切って頂けませんか?」


私とも顔見知りだった美容師さん。
お店は引退されていましたが、快く引き受けて下さりました。


長年の付き合いで、母の知り合いだった数少ないお知り合い。


美容師さんとお客さんとの付き合いしかありませんでしたが、
特別に、と云うことで快諾して下さったのです。


私は仕事の時間が来てしまったので
父と妹に、近くのスーパーへ待ち合わせ→お迎えをお願いしました。


隣町から訪ねて下さった美容師さん。
母の一番似合う髪型に整えて下さりました。
(気持ちてすが、交通費とお礼をお渡ししました)


仕事が終わり、帰宅した時


「いつものお母さんだ」


と思ったことを覚えています。


家族全員、自宅で過ごす最後の夜でしたが
家族葬の為、参列できない私の友達がお線香を上げに来てくれました。


「食事がまだならピザを取ろう」


父の言葉に、家族と友達で団らんしました。
母の休む部屋の隣で。
みんなで食事をして、寂しかったけど、楽しかったです。


「明日も早いから寝よう」


お友達が帰った後、バタバタと就寝。
その日の夜も母を囲んで……
家族全員、自宅で過ごす最後の夜です。

19日目~物言わぬ母帰宅~

母が亡くなってからも、大忙しでした。


警察に連絡、規則に基づき検視
その間、裸の母を一人にしなくてはならないのが辛かったです。


その間にも葬儀屋さんへ連絡。


何も考えていないように見えた父の
「〇〇が良い。叔父さんの葬儀に参列した時、綺麗だった」
の言葉で、病院近くの葬儀屋さんにお願いすることとなりました。


病院から自宅に戻して頂くところから、葬儀屋さんが関わって下さります。


病院に相談したところ、リストを渡して下さり
人目につかない場所で、葬儀屋さんに連絡を取りました。


優先順位(浄土真宗)として、


・お寺
・火葬場


になるとのこと。


その連絡を父に託し、
仕事先にその辺りの仕事を空けて頂くよう、電話をしました。
(母が倒れたことも亡くなったことも伝えませんでした)


検視が終わり、死化粧を施して頂く為、病院の一階へ。


搬出口のすぐ近く。


お清め、新しいパジャマを。


自宅で看る際に着せようと下ろしたのですが、
考える間もなく、そのまま見送ってしまいました。
(ドレスはその上から被せて頂きました)


穏やかな年配の女性が、
母の使っていたメイク道具を使って最期の化粧をして下さりました。


悩みも苦しみもない、穏やかな母の顔。
変な話ですが本当に、まるで眠っているかのようです。


生前を想わせる母に再び涙が。


搬送の為、葬儀屋さんに母を託した
空になったベッドを見た時、すごく悲しかった。


19日間、母は確かに生きてた。


家族全員、悲喜こもごも。
喜怒哀楽を共にしたベッドが、本当に空っぽになってしまった。


搬送される際、
病院の看護師さんが深々と頭を下げて下さりました。


母は本当に居なくなってしまった。
母が自宅に帰ってくる。
告別式まで踏ん張らなくては。


様々な想いを抱えて、一番最後に病院を後にしました。


19日間、お世話になった病室を引き払い、
母の私物を纏め、自販機で買った焼きおにぎりを食べて……


自宅に戻ると
葬儀屋さんが母を寝室に運んで下さっているところでした。


何時も使っていた布団の上に、白い布を掛けて頂いて……


パジャマのまま見送ることになると気付いたのは
だいぶ後になってからのことです。


葬儀屋さんのパンフレットを頂き


・予算について
・遺影に使う写真
・棺桶に入れるもの
・故人が好きだった物、音楽


それらを考えて準備して下さいとのこと。


通夜、告別式は、中一日空けた木・金曜。


家族全員一致したのは
「母も望んでいた家族葬にしよう」
と云うのと、


折り合いの悪かった兄・兄嫁には来て欲しくない。
(代わりに長男である従兄に参列して貰う)


と云うことでした。


ここから告別式、荼毘にふされるまで
家族で過ごせる時間は刻一刻と短くなって行きます。


この日は母を囲んで家族全員、遺体の傍で就寝しました。


・葬儀屋さんとの打ち合わせ
・見送るまでの、出来る限りの努力


また明日に続きます……